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米国カリフォルニアのソフトウェアエンジニアがIT・自転車・音楽・天体写真・語学などについて書く予定。

日本語教育能力検定試験(2019年)を受けた ~ イントロ

タイトル通り、2019年の日本語教育能力検定試験を受けた。これはいわゆる日本語の先生になりたい人が取る資格である。今後受けてみようという人の役に少しは立つことを願って、体験記的なものを書き残しておこうと思う。

なぜ受けようと思ったのか

私は米国在住のソフトウェアエンジニアであり、ボランティアで少々日本語を教えている。直近本職の日本語教師になるつもりはなく、資格も特に必要ない。ただ、自分の日本語指導力がアマチュアとしてはまあできる方らしいのと、また将来何らかのかたちで異文化交流や教育に関する仕事をしたくなるんじゃないかと思う所もあり、客観的な能力の証明を得るためと、実際にプロが通るハードルの一端を体験するために、資格にチャレンジしてみるかと思った次第である。立場および動機としては異端かもしれない。

資格を取ってご利益があるのか

日本語教育能力検定試験は、国家資格や公的試験ではない。この資格がないと日本語を教えられないということはない。ただ日本国内の日本語教育機関でプロとして採用されようと思ったら、この資格が採用条件となっていることが多い⇒つまり必要、という話である。ボランティアにとっては特に必要ないし、海外で(例えばここ米国で)活動する場合には「何それ?ふーん、そういうのあるの」程度の扱いで武器にならない。また、そもそも教職免許や教育の実務経験の方が問われることも多く、そういった前提部分と切り離して本資格を単独で取ることに(キャリアサポートの武器としては)あまり意味はないように思う。

「特に必要性はなくても、資格を取るプロセスそのものが実力固めにプラスなのでは?」という期待については、もちろんYesなのであるが、個人的には無駄な労力が多くて効率悪い方法だと思う。というのは:

  • まず間違いなくプラスなのは、日本語教育の専門家として要求される知識体系を知ることができること。例えば日本の移民政策など、「顧客の背景や彼らの抱える課題を理解せずして解決策が提示できるのか」という観点から知っておくべき分野であるのだが、私自身参考書を開くまで全く無知であった。ここまでは役に立つ勉強としてお勧めできる。
  • しかし、試験に合格するには、これらの知識を暗記せねばならず、また出題者の意図通りの正解を出さねばならない。これが効率悪い。今どき正しい知識などスマフォでGoogleすれば簡単に得られるのだから、知識体系とその位置づけさえ理解しておけば、それらを精密に暗記する必要性は低い(=知識の引き出しは頭の中に体系立てて用意しておくべきだが、かならずしもその中身をぎっちり詰めておく必要はない)。また、意図や問題文がはっきりしない悪問や、模範解答に納得できないことも多々あり、そこで「正解」を選べるように訓練させられるというのも腹が立つし無駄な労力だと思う。プロと違ってアマチュアはそんな細かいことを気にしなくてもよく、自分なりの見方や意見を持って、それを好きなように育てていけばいいのだ。

というわけで、私のように酔狂でない限り、プロになるつもりのない人が実力をつけるために受けてみようというのはあまりお勧めしない。それなら日本語教科書Genkiの本編と教師向けガイドを買って読み込んだり、ボランティア向けの啓発書(外国人に日本語を教えてみた体験記やノウハウ本はいろいろある)を読むなど、効率のよい方法は他にいろいろあると思う。

とは言うものの、役に立つ・立たないという見方で留めてしまうのは本資格に対する考察としては浅薄に過ぎると思うので、少しだけハイレベルな視点も提示してみたい。日本国内には日本語ができない and/or 日本文化になじめない人たちがたくさんいる。この問題解決の一翼を担うのが日本語教師なのだが、その数の確保、質の確保、適切な待遇の確保など、課題は山積みである。本資格はこれらの課題を解決するための試みのひとつであり、国家資格化が検討されるなど目下の動きもある。せっかく本資格に興味を持ったのであれば、下記のような記事も読んで、自分は日本語教育においてどのような立ち位置でどんな貢献をしたいのか?それを踏まえて自分にとって有効なアクションは何か?を考えてみるとよいと思う。
www.idobata.online

海外からの申し込みについて

この試験、海外居住者に超アンフレンドリーである。受験そのものが日本限定なのはまだ許せるが、願書を出す際に「専用の払い込み用紙で日本の銀行や郵便局で受験料を払い、その領収書を願書に同封させる」という日本の中しか見ていないドメドメ且つ前時代的なシステムである。米国では各種インフラサービスのオンライン化が進んでおり、これはサービスを受ける人のdiversityが半端なく広いという現実に対処するためなのだが(異なる言葉を喋れる人を窓口に雇うよりも異なる言葉で画面を表示できるオンラインシステムを作る方が現実的)、本来日本に住む外国人をサポートするという社会的大義のための本試験が受験者のdiversityすら考慮できていないという体たらくである。やれやれ、日本が真に在留外国人のdiversityを受け入れられるのはいつの日か、と思わざるを得ない。

私は結局国内の知人に願書購入・受験料払い込み・郵送物の受け取りなどすべて代理で行ってもらい、なんとか受験にこぎつけた。証明写真をオンラインで送付→コンビニでプリントできるというシステムが何気に神だった。

続く